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木村拓也は広島カープからトレードで巨人に!24時間テレビで特集 [スポーツ]

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カープV7記念「東京ドームから天まで届け!!見てるか!タクヤ!」

9月10日、広島東洋カープが東京ドームで25年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。

この場所東京ドームは、今から6年前2010年の4月24日。
この日行われた「ジャイアンツ対カープ」は、広島カープからトレードで巨人に移籍した木村拓也(当時巨人一軍内野守備走塁コーチ)の追悼試合となったのだ。

先日の24時間テレビでも家族のその後などが特集された。

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4月2日に古巣カープの本拠地マツタスタジアムで試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込み、直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってAEDで蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送された。医師による検査などの結果、クモ膜下出血と診断され、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、同年4月7日3時22分に入院先の病院で静かに息を引き取った。37歳の若さであった。

あまりの突然の死に両チームの選手、ファンは悲しみに暮れた。
残された家族の悲しさもいかばかりであったかと思うと胸が痛む。

木村拓也は1990年に捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズに入団。

1994年にトレードでカープに移籍。
しかし、2006年ごろには一軍で出番がなく、トレードで巨人に移籍したようだ。

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しかし、99年からカープファンであった私は木村拓也の勇姿を忘れることはない。

「足の速さは~♪ 誰にも負けない~♪ 風を切り走れ~♪ 木村拓也~♪」

当時選手別応援歌をすべて覚えていた私は昌っ気にこの覚えやすい拓也の歌を覚えた。
そして、当時は木村拓也と現在打撃コーチの東出と二人で、1番、2番を駆けた。

カープ野球の体現者というべき、足で見せる野球と言うのにおいて二人のプレーなかんずくタクヤのプレーに胸を熱くした。

また、巨人に移籍はしたものの、2009年9月4日 巨人vsヤクルト17回戦において 阿部・鶴岡が交代し、3人目の捕手加藤もデッドボールにより負傷退場して捕手がいなくなるという危機に直面した原巨人は、捕手として当初日ハムに入団した木村拓也に1イニングを託した。カープでは99年に一度マスクをかぶったのみであったというが、チームの危機的状況に拓也はマスクをかぶり見事一イニングを切り抜けた。

その姿に解説として見守っていた恩師山本浩二は「涙が出た」と述べていた。

そしてカープファンにとって忘れることができないエピソードがある。
カープファンと言うより監督の緒方孝市にとって・・・。

それは、2009年10月10日、緒方孝市の引退試合がマツダスタジアムで行われ、8回からセンターの守備に就いていた緒方に向けて狙ったかのように、センターにフライを放ち、緒方が見事捕球した。
アウトになったにも関わらずグラウンドを駆けた木村拓也は笑顔をみせた。
緒方も笑顔で答えた。

元同僚に対する木村拓也の最高のプレゼントであった。

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2015年4月7日、木村拓也の命日であるこの日、マツダスタジアムで「カープ対ジャイアンツ」が行われ、試合前に緒方監督は原監督は花束を供えた。
この日ファンも木村拓也のことを偲んだ。

そして、2010年4月24日東京ドームで追悼試合として行われた「ジャイアンツ対カープ」では、カープファンもカープ時代の木村拓也の応援歌を高らかに歌い上げた。

「足の速さは~♪ 誰にも負けない~♪ 風を切り走れ~♪ 木村拓也~♪」

この日から6年と4か月と17日後、カープは東京ドームで優勝を果たした。

かつて1975年、悲願の初優勝を決めたのも後楽園球場だが、41年前の再現でもあったようにも思ったが、私はこの事を思った。

きっと、胴上げされる木村拓也を笑顔で、緒方の恩師三村敏江と共に笑みを浮かべ見守っていたに違いない。
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